人工知能への理解を高めるために、AIってよくわからないと言う課長さんたちに伝えたいこと。


最近、最も頻繁に使われているバズワードは「人工知能(AI)」ではないでしょうか?

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2001年のスピルバーグ、不朽の名作

この人工知能(以下:AI)については、正しく認識しておかないと、日常的な議論の中で話がかみ合わなくなることがわかってきました(特にインターネットネイティブではない課長(カチョー)のみなさまたちとの議論)。そこで、世の中の人が技術革新と言えばなんでもAIとか言ってしまうことは、しょうがないとして、せめて仕事をする上で関わる人同士では間違いが起きないように、正しい認識を持っておきたいと思い、少し整理してみました。

そもそも人工知能とは?

そもそも人工知能とは一体何者なのでしょうか?いつごろから存在が確認され、今はどのような位置づけで語られているのか探っていきます。体型的にまとめられている以下のサイトから、必要な部分を抜き出します。

japan.zdnet.com

最も古典的な人工知能は17世紀に誕生?

ZDNet Japanの記事では、このように書かれています。

近代科学の文脈において、人工知能の研究は、17世紀に始まった 。象徴的な出来事として、ドイツの数学者ライプニッツが「四則演算計算機」を発明したことが挙げられる。当時のライプニッツをはじめとする数学者達は、「知能」のうちの「推論」の仕組みを、論理演算に落とし込もうとし、それを実現する手段として、四則演算計算機を発明したのである。

つまり、+,-,*,/の演算を機械的にできるものを発明したことが始まりとされているわけです。
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WisdomTex.com 情報リソース

「え、これが最初のAI??」と思う人もいるかもしれませんが、人間が計算を機械でやりだしたことが、今のコンピュータにつながっていることは明白です。ここで、計算をしているだけでも人工知能であると位置づけることが言えます。

そして、日本では古来から機械仕掛けの計算機を使っていました。そろばんです。
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Tomoe Soroban トモエそろばん │ そろばん(ソロバン・算盤)のポータルサイトより

そろばん - Wikipediaによれば、日本では室町時代(1440年頃)から使われだしたとされています。写真にあるように、そろばんは単なる計算機ではなく、商売をつなぐ道具として使われていたと思われます。西洋と東洋での計算の捉え方の違いがこの辺りから伺えます。


人工知能の定義には議論の余地がまだある

古典的な人工知能はわかったとして、現代でいう人工知能とは一体どうゆうものか?定義っぽいことを探してみました。

人工知能」とは何だと思うでしょうか?まるで人間のようにふるまう機械を想像するのではないでしょうか?これは正しいとも,間違っているともいえます.なぜなら,人工知能の研究には二つの立場があるからです.

一つは,人間の知能そのものをもつ機械を作ろうとする立場,

もう一つは,人間が知能を使ってすることを機械にさせようとする立場です.(注1)

そして,実際の研究のほとんどは後者の立場にたっています.ですので,人工知能の研究といっても,人間のような機械を作っているわけではありません.


(注1)立場の違いをこのように定義してよいか,また,これらの立場は異なるのかということについても議論の余地があります.

人工知能学会「AIって何?」より


人工知能学会でさえも、まだしっくりくる定義付けをできていないようです。ただし、今の所の多くの研究は、「人間が知能を使ってすることを機械にさせようとする立場」とのことですので、映画のAIやiRobotターミネーターなどは、人工知能研究というよりロボット研究なのかもしれません。もちろん、そのロボットには人間の思考に近づくような工夫≒人工知能?が含まれているとは思いますが。

そもそも知能を定義づけることはナンセンス!

人工知能について探求していたのに、急に変な言葉が出てきました。

知能を定義することが不可能であることを説明するためには「自己言及のパラドックス」と「不完全性定理」 について説明する必要がある。

なんすか「自己言及のパラドックス」と「不完全性定理」 って。どうやら「自己言及のパラドックス」は哲学的な考え方で、それを数学で証明したのが「不完全性定理」ということのようです。

「自己言及のパラドックス」の例

ある人がいて、その人がたまたまクレタ人で、その人が「クレタ人は嘘つき」というせりふを言った、という状況を説明する文である。この文は「自己言及のパラドックス」の構造を持っており、自己矛盾を起こしている。「クレタ人は嘘つき」と言ったクレタ人が本当に嘘つきだったと仮定すると、彼は嘘つきなのだから、彼の言ったせりふは嘘である必要があり、「クレタ人は嘘つきではない」ことになる。

 しかしながら、そうすると、このクレタ人は「クレタ人は嘘つき」という嘘をついたことになり、このクレタ人は嘘つきということになる。つまり、彼は、嘘つきであるとしても、嘘つきでないとしても、矛盾が生じてしまうということになる。

なんかこうゆう問題ってハンターハンターでも出てきていたような。

要は、自己矛盾ってやつですね。クレタ人が本当に嘘つきなら、その言葉すべても嘘なので、「クレタ人は嘘つきです」が嘘で、嘘つきではないということになる。これで自己矛盾を起こしてしまうわけです。ほかにも面白い例題がありましたので、参考に紹介。

身近な所を挙げれば、「『張り紙禁止』と書かれた張り紙」・「『静かにしろ!』という怒鳴り声」・「『例外のない規則はない』という規則」・「『その質問には回答しない』という回答」・「『ありえないなんて事はありえない』という台詞」等々、自己言及のパラドックスは世の中にありふれている。

自己言及のパラドックスとは (ジコゲンキュウノパラドックスとは) [単語記事] - ニコニコ大百科


確かに、子どもの頃よく「貼紙禁止!ってこれはいいのかよ!!」とかツッこんでた記憶はあります。純朴な子どもの方がそうゆうものに気づきやすいのかもしれません。人工知能の自己矛盾に戻ります。

もし、知能(仮に「完全人工知能」と呼称する)が定義できたとする。すると、その完全人工知能は、自ら、知能を定義できることになる。すなわち、完全人工知能は、その体系の枠組みで、(矛盾なく)完全人工知能を定義できることになる。しかしながら、不完全性定理は、まさに、そうした体系を定義すること自体が不可能であることを示している。

この文章よくわからないんですけど、なんとなくわかったきになります(これも自己矛盾?)。知能といった自らが定義できちゃうようなものをほかのものが定義することは不可能というか不毛ということですね。

こうした背景があるからこそ、知能(あるいは人工知能)の定義は、明確にされておらず、研究が進むほどに、その立場は多様化せざるを得ない。だがしかし、これは一方で、「要件を定義してシステムを設計する」という方法では、人工知能は決して実現しないことを意味している。これにより、知的活動は人間をはじめとする生命にのみ許された行為であることが理解できる。

というわけで、人工知能をなにか一つのくくりに定義づけることはやめておきましょう。統一的な定義ができないだけに、活用しようとする人がきちんと共通の定義を持って進めないといけないということがはっきりしてきました。

課題設定は人間しかできないこと

この記事の最後には、こう書かれています。

情報技術の革新によって、さまざまな業務が自動化されてきているとはいえ、そもそも「解くべき問題を設定し、解決する手法を決める作業」は人間が行うべき領域であり、そうした文脈においては、どんな仕事も「機械に奪われる」ということは起こりえず、むしろ自動化する分、可能性が広がると考えるほうが適切ではないかと、個人的には考えている。

たとえ優秀な人工知能と呼ばれるものができたとしても、解かせる課題を教え込むのはそれを作った人間でしかできないこと。これに関しては、「その課題すらも作ってしまうAIが現れるのでは?」とSF映画を見すぎた課長さんたちが騒ぎ出すが、それはあり得ないのです。なぜなら、人工知能は結局は高速計算や高度統計処理を行ってなにか推測したり、関係性を導くものでしか今はない。確かに、自ら考えて新しいことを生み出すことを期待するかもしれないが、それはあり得ないと個人的にも思います。

おまけ:スプツニ子と人工知能学会

人工知能学会の学会誌で、女性型家政婦的ロボットが表紙を飾ったことに対し、現代アーティストでMITメディアラボ助教のスプツニ子!さんが怒りをあらわにしていました。


怒りの対象はこれ。

学会誌名の変更と新しい表紙デザインのお知らせ | 人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence)

確かにちょっと違和感あります。
togetter.com

確かに、オタク文化が先行しすぎた結果がでちゃった表紙デザインですね。


人工知能(AI)の現代の活用事例

人工知能について、無理に正しい定義を当てはめることは諦めた方がいいことがわかりました。では、現代社会において、AIを用いて課題解決をしている事例はどんなもんでしょうか。AI活用事例をざっと見ることにより、どのような捉え方があるか探ってみます。

いろいろある活用例

「AI 活用」でググった結果、上位に来て目についたものです。

o2o.abeja.asia
career.goodfind.jp
bita.jp
wired.jp


わかりやすい例としては

  • テレフォンオペレーターサポート音声認識技術によりテキスト化、相手の問題としていることを分析し人間に伝える
  • ソフトバンクのペッパーは感情エンジンを搭載:人の感情を読み取り、ユーザーの感情にに共感、人間らしさを提供する
  • 記事の作成も人工知能が活躍:提供されるデータを活用し、150〜300ワード前後の長さの短い記事を自動的に作成。記者を本来のジャーナリズムに注力させる
  • webサイト自動作成:サイトの目的を設定して、画像とテキストをアップロードするだけでサイトが自動的に出来上がる
  • オススメレシピを自動リコメンド:膨大な料理のレシピデータを基に、ユーザーが提示する材料やイベント(ランチ、ディナーなど)といった条件に合ったレシピを予測しオススメ
  • 服の種類を自動仕分け:画像認識により、画像パターンから服の種類を仕分けし、ファッションアプリと連動。

活用例の大まかな分類

実際にAIを活用している!と主張している事例を見る限りの分類は以下のとおりかと思います。

分類 過去(取得)データから最適解を推測し、
個別に提案する類
人がやると煩雑で手間のかかることを
機械がサポートしてくれる類
事例 ペッパーの感情エンジン
服の種類を自動仕分け
オススメレシピを自動リコメンド
テレフォンオペレーターサポート
記事自動作成
webサイト自動作成

これ、完全に分けることはできないと思いますが、どちらかといえばそっちという位置付けで分けてみました。もし技術開発の中で、「AIを活用しようぜ!」ってなった際は、このどちらの方向性でいくのか、議論の題材にしてみてはどうでしょうか。


AIの誕生で消えるかもしれない職業とか

もうこっからは、惰性です。よく新聞記事等で出る、あと10年でなくなる仕事(2025年)についてのオックスフォード大学の研究結果です。
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出所:オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

ほかにも、いろんな人がいろんな角度で無くなりそうなしごとをこぞって書き出しています。
careerpark.jp
daigaku-wm.com
tabi-labo.com
www.ikedahayato.com
blog.btrax.com


これらの記事を見てみると、AIに仕事を奪われる可能性が高い条件は以下のものです。

  • 正確性を要求される
  • 単純作業・マニュアル化しやすい
  • システム化することで計算、算出できる
  • 過去の判例を持ってくる

といった感じでまとめられています。つまりこの逆が、AIに奪われない仕事です。

  • 正確性を要求される→不確実性がありそれに対応しないといけない
  • 単純作業・マニュアル化しやすい→複雑な作業でマニュアル化しにくい
  • システム化することで計算、算出できる→システム化が難しく、計算だけでは算出されない
  • 過去の判例を持ってくる→過去の判例がなく、自らが切り開く必要がある

こうみると、「ヒトに対して、さまざまな対応をしなければならない仕事」(福祉作業系、伝統工芸系?)や「新たな課題を設定して多角的に取り組む仕事」(研究開発、新規現象へのコンサル業務等?)などはやはり仕事として人間がやっていかないといけないものだろうと思います。個人的には、AIが仕事を奪うという発想ではなく、補助的に活躍してもらうことで、ヒトがもっとヒト同士のつながりや温かさを知る社会になっていくことが自然の流れだと思っています。理想論かもしれませんがね。


シンギュラリティ(技術的特異点)について。2045年発生予定。

さいごに、AIが仕事を奪う論調の根拠的な話として、2045年に起こるとされているシンギュラリティについてさらっと見てみました。

www.ikedahayato.com
jp.techcrunch.com

簡単に説明を引用。

技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん、英語:Technological Singularity)、シンギュラリティ(Singularity)とは、人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事とされ、テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうとする未来予測のこと。未来研究においては、正確かつ信頼できる、人類の技術開発の歴史から推測され得る未来モデルの限界点と位置づけられている。

ちょっともうお腹いっぱいなので、細かい解釈はここでは諦めます。スマホが当たり前になった現代では、すでにシンギュラリティが起きている入っても過言ではないのでしょうか??もちろんインターネットが当たり前になった時代でも、車が当たり前になった時代も、過去から見たら、シンギュラリティそのものかもしれませんね。



かなり長い記事になりました。これまでの最長記録だと思います。

ではまた。